the scent of Jasmine ~ Akiko Endo Essay Blog

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7.18.2013

Rainy day


Rainy day
紫陽花
 何日もシトシト雨が続いている。
 辺りはとても静かです。晴れた日の賑わいよりも、シトシト雨の日に歩くのを好んでいる。
 絶え間なく何かに追われて、せかされながら生きている
 ニューヨークの毎日。雨の日はその動きが停止したようです。一瞬、自分だけに静止した時の恵みを与えられたような気持ちになります。では、と、せかせかとレインシューズ履いて外に出る。
 白樺の木立から雨だれが落ちてくる。敢えて傘をささずに、したたる雨だれの感触を受けながら歩く。
 紫陽花の花が、緑の葉影に潜むように咲いている。雨のしずくに揺れている。

 雨に打たれている紫陽花はもの静かで、美しく、淋しげに見えます。


陽光を浴びている紫陽花よりも、雨が似合います。雨の散歩道はとても静かです。晴れた日は入れ替わり人が座って、賑やかなベンチもひっそりとしています。誰も座らないベンチは、やはり淋しそうに見えます。
 
 
 
 
 
 
 

 中庭のテーブルでは椅子が向かい合ってお喋りしているように見えます。こんな静かな一瞬があるなんて、まさに天の恵みのひと時。白樺林を一陣の風が吹き抜けると雨だれが勢いよく落ちてきました。
 懐かしい日本の梅雨の情景が思い浮かびます。
 
紫陽花を見ると、昨年6月、母の車椅子を押して、我が家の近くを散歩した事を思い出します。
空梅雨の強い陽ざしの下を一年半振りに母は車椅子に乗って自宅周辺を散歩しました。
お手伝いの知人は汗だくになって車いすを押してくれました。家々の玄関口の際に紫陽花が厳しい陽射しにうつむくように咲いていました。それを眺めながら、思い出を語りながらの散歩でした。もう一年前の事なのに、昨日のことのように思えます。今年は行ってあげられませんでした。今日は紫陽花を見て、とても母とのひと時を懐かしく思い出します。
--散歩道で母と眺めた紫陽花iPhoneで撮影--

 
  
 母が完全に入院してからは、我が家に帰っても、もう迎えてくれる人はいなりました。
 ニューヨークに居ても時折、昔は我が家の庭も紫陽花が沢山咲いていた事や、沈丁花の花の香りが表玄関を入ると漂っていた事、父が剣道の練習で打っていたぶどう棚を思い出します。夏の花々、マリーゴールド、露草、向日葵、庭はいつも季節の花が咲いていました。ホースで水をやるのが夏の日課。庭の花たちは生き返ったようで、涼しくなった庭が心地よく、縁側でゴロリとしたのを思い出します。
 子供のころは縁側でよくゴロリとして空ばかり眺めていたのを覚えています。


ボーッとした子だった。お空をジッと眺めている事が多かった。』と祖母は私の子共のころの様子を語ってくれました。私は空を眺めるのが好きでした。
 そして空想して、自分だけの詩の世界にいたことを覚えています。 そんな様子を見て、周りは大変心配していたようです。お向かいに住む、おばさんが、お空をじ~っと眺めている私の小さな背中を見て涙ぐんでいたそうです。『何か淋しくて、亡くなったお母さんを思い出しているのかしらねぇ。』と祖母に話したそうです。いいえ空想の世界にいたのです。幼いころ、父は漫画や少女雑誌を絶対買ってくれませんでしたが、分厚く重いグリム童話や読書に適するものは買ってくれました。ですから文字しかない本を読んで想像していたのです。
 
 今では懐かしい初夏を思い出す我が家の周辺は、すっかり変わってしまいました。時を超えて、ニューヨークで雨音を聞き、雨だれの下を歩きながら。停止した時の空間は、懐かしい情景と、そこに関わる人々、心温かい思い出を運び私を励ましてくれるのです。
 

 
 この一瞬は時を止めてくれる天の恵みです。
 
 
 毎日、時に追われて走り続けるばかりでは、明日へのエネルギーは湧いてこないものです。自分の立っている位置、自分を取り巻く環境、そして自分が持ち続けている希望と目標を再認する時間が必要です。誰も入らない自分の時間を持つことはとても大事です。心の内を綴る一瞬の時間を授けてくれた雨に感謝。

July.2013
Essay&Photo by Akiko Endo