the scent of Jasmine ~ Akiko Endo Essay Blog

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9.11.2012

9.11 Memorial

星条旗のカラーイルミネーションで追悼を表す。

第1部

 9年前の9月10日の深夜、夜空に輝く月を眺めた時の心境を綴ったノートを今、読み返している。今年は9.11メモリアル、11年目を迎える。あれから11年、言葉に尽くせない想いが込み上げて来る。


心の破片を集めて

 2003年9月10日から11日の真夜中
 
 今、ミッドタウンのコンドミニアム(オフィスとして使っている。)にいる。
 明日の早朝から住まいのグランドゼロ一帯は同時テロ攻撃から2年目のメモリアルデーが執り行われる為、周辺は交通規制により通常の通勤コースの一部は閉鎖が予定されている。

 その為に今晩はオフィスに宿泊することにした。
 自宅で2周年を迎えれば、同じ体験をした隣人と慰霊の気持ちも捧げられたかも知れない。また共有した心の破片をかき集める事も一緒にできたであろう。
 でもここにいて良かったのかも知れない。そこにいれば耐え難い思いが身を貫く事であろう。

 午前2時を過ぎて横たわると澄んだ夜空に冴えた月の存在に気がついた。
 煌々として尊厳ある冷たい光がこのマンハッタンを照らしている。
 2年前の11日の真夜中にシカゴからマンハッタンに戻った時、ワールドトレードセンターの遥か頭上に輝いていた月と全く同じ輝きであると思った。

 あの光景は忘れられない。ツインタワーの最後の一番美しい姿だったかも知れない。
 最後の月光の下に輝くワールドトレードセンター、そして翌朝には命絶える瞬間の叫び声をこの耳に聞いたのである。
 地を轟かせながら崩れ去ったその光景はあまりに残酷で忘れる事のできない。
 悲惨な光景が心に刻まれた。

 今、同じ月の下で光に吸い込まれるように過去の実在の中に帰っていくようである。時が止まってひたすら過去に吸い込まれて行くようである。
 そう、今も月は変わらぬ輝きを放っている。

 9.11の響きは生涯、私の命に響き続けるであろう。歴史の記録には過去に類例を見ない衝撃的惨事として残されていくであろうが、多くの人はやがて忘れていくであろう。
 過去が遠くなって行く時に、誰が、この世に実在した一人の人間の生命を賭けの一瞬があった事など思い出してくれようか、そして時が経とうと失った人を偲びつづける家族の深い悲しみなど他人事として忘れていくであろう。

 人は皆、今自分が生きていくことに精一杯であり、自分の未来の事で頭が一杯であろう。
 私はせめて私の心の9.11を、そしてそれは私という小さな存在に何を語りかけてきたのかを家族、友人達、親しい人々に残しておきたいと思い続けてきた。

 生きることの苦しさ、衝撃の体験が生きることに向かわせた事を綴っておこうと思い続けてきた。

 2003年9月、2年目にしてやっと忘れ難い事柄を一片一片かき集めてみようと真っ白な紙を広げたところである。

 明日もメモリアルサービスが各教会、各所でおこなわれる予定である。
 バッグパイプの行進は朝の6時からスタートする予定である。

 あの時お母さんのお腹にいた赤ちゃんは9.11が過ぎれば2歳になる。きっと明日、ママとお花を捧げにくるだろう。
 花を捧げる自分のパパを永遠に知らない。ママの心の中に生きて、パパは神話の中に生きているだけ。自分の父親の抱擁の感触も彼らは永遠に体験することはない。

 彼らの人生が続く限り、9.11は彼らの人生の始まりである。
 小さな手に握ったバラの花が優しく秋風に揺れている。
 涙は永遠に渇きを知らない。
2003.09.10-11 オフィスにて

Note

 2003年5月のメモリアルデーに近い、爽やかな晴れた日、昼下がりに恒例となった慰霊の祈りを捧げに私は二人の友人と、住まいに近接したハドソン河を眺めるプロムナードの仮設メモリアルサイトにお花とキャンドルを持って出かけた。

 それは2002年冬以降に設置されたもので、以前は侵入禁止サインがかなり厳格にはり廻らされていたため、世界経済センター側の灰で覆われた小さな公園の金網に遺族はそれどれの思いの気持ちを綴った手紙や詩を挟んでいった。子供はテディベアのぬいぐるみを置いていった。花は山のように積まれていた。まだ異臭が漂うグラウンドゼロだった。

 やがてハドソン河に面したプロムナードの小さな石段が聖壇に都合よく出来ていたせいか、そのまま犠牲者の写真から思い出の衣料品などを置き、遺族が日参する場所となった。アメリカン航空、ユナイテッド航 空の乗務員、パイロットの写真は大きく末端に掲げられ、凛々しいキャプテンの制服を着た写真、ユニフォームを着たフライアテンダントの笑顔の写真が胸をつく。

この詩「心の破片を集めて」を著すまでに至る当時の手記がありました。

Note 2003.05.04


 何かに表現しなくてはという気持ちにかられる。
 まとまりなく、とどまる事なく浮かんでは消えて、浮かんでは消えていく
 小さな記憶の破片は、実際には消えることなく、心の奥底に沈んでいるに過ぎないのである。

 今日、いつものようにツインタワーの足元にあった消防署の前を通る時だった。

 2年半かけてではあったが、道路は随分と整備舗装されてきていたのを改めて感じた。
 それは消防署前から少し距離を持って事件現場沿いに通行していた。
 しかし、今朝は横断歩道の白い線も引かれて直進で消防署の前を真っ直ぐに通れるようになっていた。
 その真新しい白線を踏んだだけで胸がじーんとして涙ぐむのである。
 3年前は何気なく通っていた道である。あまりに人通りが多く信号無視をしながら渡った横断歩道。足元に重なるのである。
 多くの人の作業でここまで来たという感慨なのである。

 こうして復興に一歩一歩が現実生活に現れてくると、沈んでいた破片が浮かんでくるのである。
 忘れてはいないのだ。記憶の奥底に沈んでいるに過ぎない、人間の五感の全てが感じ取ったあの一瞬の強烈な記憶はこうして日々の生活に前向きに生きなくてはならない現実に砕けながら沈んでいったのだ。


 破片が浮かび上がった時に痛みを感じながら、私はその破片を集めながら、それを認知しながら、思い切って外に出さなくてはいけないと強く思うのである。そうしなければ私の9.11は心の整理がつかないのである。


Note 2003.05.11 Late afternoon

 初夏の緑がまぶしい昼下がり。

 ツインタワー崩壊により灰をかぶった木々の蘇生は難しく
 新しい木々が運ばれて、公園の急ピッチでのクリーンナップのお陰で、今年も昨年と同じ初夏の新緑を見ることができた。
 

 新しく植樹された桜はニューヨークの遅い春に見事に開花。昼下がりにランチを持って公園に人々は集まってくる。この光景は2年前の昼下がりとすこしも変わらない。










早朝のMemorial Tower
建設工事が進捗しています。














 



 















 




















 本年の暑い夏の昼下がり、4年前の夏もとても暑い夏でした。今、その日を思い出すかのようにこの詩を読み返しました。  

灼熱の陽の下で、“さようなら老兵”
 
 私は焼けつくような強烈な炎天下でもひたすら歩く。焼け付く陽射しを遮る建物の影を伝って、かすかな風の吹き渡るのを期待して流汗を拭いながら黙々と歩く。

 歩かなくては居ても立ってもいられないから歩く。8年目の9.11が巡ってくる、たったその一刻に落ち着かない思いで河沿いの道をひたすら歩く。

 ハタハタと靴底の音に気がついて足を止めた。
 滝の水音が涼しげに聞こえてくる小さな公園のベンチに腰をおろして靴底を見る。踵の部分が剥離していた。

 この靴は9.11の当日、脱出の際に意図して底の厚目のものをと、選んで履いていった靴である。 
 避難中もずっと私の足を支え続けた靴である。
 
 ”今日その命が尽きた”
 私はこの"老兵たる"靴をぬいで最後の姿を写真に収めた。

 捨てられずにいたのは同志だったから。 あのとき階段を転げ落ちた時も、リバーサイドを灰を蹴散らして走った時もジット耐えて支えてくれた。

 そしてこの8年間、私が土を踏みしめる度にどんな思いを胸に閉まって歩いていたか判っていてくれていたから。

 この老兵は2001年8月にCole Hannで購入した。新品だった靴は9月6日から10日まで私とシカゴを旅した。
 そして翌日、9.11に遭遇。

 私は脱いだ靴をベンチの脇の小さな岩盤の上においた。
 8年目に命尽きた。辛かったろうに。誰も知らない心のうちをじっと耐えて老兵だけは支えてくれていた。 

 胸が一杯になった。笹竹の群生が川風に吹かれてサラサラと音を立てていた。
 一刻一刻、たとえ重い足取りであってもひたすら前に向かって歩いてと私にささいていた。
 ”さようなら老兵”
 でもどうしてお前をゴミ箱に捨てられようか。
 心の奥で涙が溢れた。

2009.08.11(08.10 18:30 in NY) 

 最後に昨年、10年目に著したEssayを今一度振り返って第1部を締めくくらせていただきたいと思います。本年の9.11はNYで迎えていますが、昨年はこの詩と共に日本で講演をさせていただきました。



10年目のメモリアル

 2011年の冬、米国北東部は前年の12月から寒波が襲い、例年にない厳しい冬を迎えた。

ハドソン河に流氷が浮かんでいるのが自宅の窓から見えた。
 自由の女神は吹雪の中に黙然とたたずんでいた。
 この冬は雪は止むことを忘れてしまったように降り続けた。

 戸外には人の姿が見えない積雪を記録した日でも、私はいつも歩くハドソン河沿いの道を歩いた。
 河風に煽られて戦慄する白い雪を浴びて一羽のカモメがフェンスにじっと停まっていた。
 何も餌を見つけられないのであろう。
 黒い防寒着を着た若いカップルが懸命に雪人形を制作していた。

 二つの黒い点が黙々と動いていた。静寂の中のモノトーンの世界である。
 心も静かなモノトーンの世界になる。
 空を見上げれば灰色の空から唯々白い斑点が舞い降りてくる。
 灰色の空を見上げればひたすら輪舞のように舞い降りてくる。

 その白い雪はやがて白い紙片が舞い降りてきた10年前の灰色の空が私の眼の底から甦って来る。
 青く澄み渡った秋空を一瞬にして黒雲が覆い、やがて灰色の空からは石灰色(せっかいしょく)の灰燼に混じって
 オフィス内の書類がまるで雪のように舞い降りてきた。
 あれは現実だったのである。

 そこで繰り広げられた命の救済のドラマとそこに居合わせた人々の誰もが我が命の(ゆくえ)行方を見失った瞬間があった。
 10年目にして初めて思うことがある。

 あの日のこの歴史的事件の予告を受けていたら、きっと誰もが警備体制と非常線を張って世界貿易センターに警戒していただろう。
 今思えば世界を震撼させるほどの事件が計画的な謀略であれば、何故、各国の国家機密情報を掌握し得る機能を持つ米国が計画を事前に関知していなかったと言えようか。

 その疑問は、今になって見えてきて現実を知ることになる。
 当時は目の前の現実に慟哭し、溢れ出る人間の極限までの感情がその本質を見つめる余裕を与えなかった。
 あの日はどこまでも澄み切った秋空が広がっていた。
 朝の鳥の鳴き声も清々しく木立のそよぎに響いていた。
 秋晴れの1日を、もし何事も無く、いつもように生活を送ったとしたら、と思う。

 運命とは予告無きものである。
 今の自分とは別人が此処にいるであろう。日々の延長を只送っていたに違いない。
 目の前にいる私とは別の私が存在し、此処にいる人々とも巡り会うことはなかったかも知れない。

 September 11,それはあの日で人生を閉じたかも知れない自分が、命を閉じた人々と共に生涯関わり続けなくてはならない日なのである。
 生きる事の苦しみや悲しみ、そして毎日、自分は生きている実感を当に敏感に感じ続けているのである。
 たとえそれが国家謀略のプロットであっても、そこに居たのは平凡な米国市民で有り、居住者であった。
 母であり、父であり、兄弟であり、友人であった。
 今日の朝食を共にし、朝のコーヒーを飲んだ同僚であった。あの日まで続いた彼らの生活があった。

 予告無き事はいつでも起こりうるのである。
 だから、惟う。今の一瞬を大切に生きて、悔いなく生きるとは今の時を宝物のように大事にすることであろう。

 10年目の年明けの冬はそれは厳しい寒さが襲った。灰色の空から舞い降りる雪。
 米国同時多発テロ事件から10年が経つ、自分の生活環境も、世界も変わった。


2011.07.16 

第2部

亡き方々への祈り
 
9.11 Memorial Wall
亡くなった消防士達の遺影

 2012年9月9日の夜、既に慰霊の花とキャンドルが救命に命を懸けた消防士の全員の前に添えられていました。9.11 Memorial Wallには、"Dedicated to those who fell and to those who carry on – May we never forget."と刻まれています。

 11年前の9月10日の深夜にシカゴからNYに戻り、最後のワールドトレードセンターをご一緒に見上げた知人が、本年9月9日の夜、冥福の祈りを捧げにグラウンドゼロを訪れました。
 その後、この一帯に優しい雨が降り注ぎました。
 しばし、11年前の9月11日の想い出がお互いの心に蘇りました。
 9月10日、9.11米国同時多発テロ事件で亡くなった方々を追悼するため遺族らが、事件現場の周辺を行進しました。

 もうまもなく迎える9.11より11年の歳月を控えて。NYより。



晴れ渡ったNewYork 9月10日の写真














   

Essay & Photo by Akiko Endo