the scent of Jasmine ~ Akiko Endo Essay Blog

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5.06.2012

『陽だまり』  Sunny Spot

ハドソン河添いを北に向かって 2.5 キロ程の長いプロムナードが私の散歩道である。
四季を飾る花々に縁取られたサウスメドウ(South Meadow)を通り過ぎ、終着地の埠頭までの半分ほどの所に私の座る陽だまりのベンチがある。

この陽だまりのベンチに辿りついて小休止する。
ベンチに座って春夏秋冬、巡る同じ景色を眺めながらそれぞれの季節を綴った懐かしい思い出のページを開く。

春の日にいつもの散歩道を歩いた。朝の空気も温かみを帯びて、春の匂いがする。小さな花壇の陽だまりにクロッカスの花が咲いていた。ヒヤシンスの甘い香りが風に乗って漂って来る。昨春から今春にかけて、親しかった人々がこの世を去った
河風に吹かれて故人となった人たちとの思い出を辿る。もう一度会って話したい気持ちが込み上げてくる。思い出を引き出して、実在のない時の空間に自分を置いてみる。当にバーチャルな世界を陽だまりのベンチで描いている。
時として歳月の重圧を感じる事もある。
 陽だまりのひと時を過ごして、やがて河の突端、埠頭に辿りつく。
船の甲板にいるような気分でデッキチェアーに座って対岸のニュージャージーを眺める。
南に自由の女神とエリスアイランドが見える。カモメが飛んでいる。
私はこの一瞬の時に心に生きる人々と過ごし、少しばかり感傷的になる。しかし埠頭から折り返して来た道を歩き始める時、現実に向かう力強い一歩を踏み出している。
河風が心地よい。


Spring.2012  
Photo by akiko endo




                                                  『夕暮れのグランドゼロ、ヨットハーバー』
時の破片

世界を震撼とさせた大惨事であっても、『時』という不思議な空間の襞(ひだ)に折りたたたまれてしまい、
やがて人々の記憶から忘れ去られてしまうものである。
いかなる悲痛事であっても、自分の体験に刻まれたものでない限り、記憶から抹消されてしまうであろう。
この地球上におきた悲しい出来事は、星の数のように限りなく歴史の襞にたたまれていよう。
それは、どの惨事も悲しい出来事であり、死者の数やその規模で人間の悲しみを比較できるものではない。
そこには、たった一人の人間がいて、大人がいて、子どもがいて、老人がいて……
そこには人間社会の最小単位の家族という絆があり、受けた衝撃と悲痛なまでの悲しみは共通なのだから。

惨事を体験した者の心には、容易に取り除くことのできない無数の破片が刺さっているようだ。
英雄が雄叫びをあげて、焼けただれて倒れたとき、砕け散った焼け焦げた残骸物が胸にあたかも刺さっているような、耐え難い痛みや苦しみが当初はあった。時間と共にその破片の痛みは、やがて自分の一部になってしまうのである。時が経ち自然に癒えたのではなく、傷みが自分の一部になってしまているに過ぎない。それはある拍子にうずき始め、とめどもなく悲しみは溢れてくる。そう、共通の痛ましいものと遭遇したときである。

ナインイレブン (9.11)を境に自分の航路を模索し、果敢にも一人で小船を漕ぎ出していた。そこには。見えない力に押し出されるような感があった。やってみれば、進んでみれば何かが見えるだろう、といった無謀な旅立ちだった。しかし、そう、動かなくてはいられない、何かに衝き動かされたといってよいのである。とはいえ、先が見えていたわけではなかった。

洋上で先に進むにはもう駄目かと、倒れそうになりながら、ときには暴風雨にあいながら、ただ生きている限り進まなくてはならなかった。航海洋上で出会った素晴らしい人々、そして『生きることに向き合った旅路は』、思いがけない商品開発へと私を導いてくれた。たった一人の旅立ち、私は船のキャプテンであって、舵を握り、ときに甲板清掃人であり、乗船者でもあった。果てしない洋上で自ら出会った体験のおかげで見つけ出したものがある。心を癒す香りである。
。。。。。。。。。。。。。。。著書『 9.11のジャスミン』後書より。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 2008.09.11「『9.11のジャスミン』出版記念パーティーより」